頑張ること、我慢することは強要されることではない

頑張ること、我慢することは強要されることではない

■制限される日常
新型コロナ感染により、私たちの生活は変わらざるを得なくなり、様々な制限がされていった。それらは今も継続中である。

 

■もし自分が20代、30代だったら
地方に一人で住んでいる私は、緊急事態宣言が発令された自粛期間中でも、いつも通りの仕事をし、特に会いたい人もいなかったというのも幸いして(苦笑)、平日ではそれほど変化はなかった。それでも、休日は街が静かになり、やりたくてもできないことが増えていく。まあ、悲観してもしょうがない。「ちょっとぐらいの不自由を楽しむ」感じで、さほど落ち込むこともなく、今まで過ごしている。ただ、自粛期間がもっと長くなっていたらどうなっていたか。加えて、もし自分が20代・30代だったら、もし都会に住んでいたら、もっと精神的に不安定だったと想像がつく。意志が弱いとか、ダメな奴だからではなく、環境やタイミングでたまたまそうなってしまうものだと思う。

 

■ホッとできる場所
このように今まで経験しなかった事態に置かれた時、ちょっとした言葉一つで励まされたり、傷ついたり、怒ったりする自分がいる。そしてホッとできる場所を探す。自分の場合は近所の本屋であり、図書館であり、おひとり・おふたりさま専用のカフェだった。一冊の本を携えて店の扉を開ける。店主にあいさつしてちょっとした言葉と笑顔を交わして、自慢の庭を眺める席に着き、マスクをとる。ふぅっ…と深く呼吸をして、飲み物が来るのを待ちながら本を読む。自粛前も通っていた店だけど、今ではことさら贅沢に思える大切な時間である。

 

■感染しても安心して治療できる環境の維持
さて、医療崩壊の問題は、感染者が安心して治療を受けられる、そして医療従事者が安心して働ける環境を整え、保持していくことが重要なのは言うまでもない。そのために、私たち一人ひとりに何ができるだろうか。

 

■コロナで分断されない社会
個人レベルで感染予防を徹底する生活を心がけることはできる。ただ、「感染した人は悪い」という圧力や、「感染したら攻撃される」という不安を抱えながら日々を過ごすのは安全な社会とは言えない。感染した・しないで分断されない社会、「ウィズ」は「コロナとともに」ではない。感染者も含めた「みんなとともに」だよね。

 

■頑張ることを強要されると弱音が言えない
また、「医療従事者に感謝とエールを」という言葉が登場し、感謝する人とそれに励まされたという感動のエピソードをニュースなどで目にするようになった。個人レベルやローカルレベルどまりならまだしも、大々的なキャンペーンや大きな組織が先導して進めたりすると、「大変だけど我慢してね」というメッセージに変わり、不安やストレスを抱えて働いている医療従事者が愚痴や弱音を吐けないようになるのでは…と心配になる。今までの歴史から見ても、ヒューマニズムを利用して問題の本質をすり替えていないか注意が必要だと思う。

 

■世の中の動きに関心を持つ
感染者が増えても対応できる医療システムを構築は、やはり専門家でないとできない。国が対策のための財源と人材を確保し、正しい情報をわかりやすく伝えるというあたりまえのことを、国民である私たちが関心を持って見ていくことが大切だろう。脆弱な問題を国民に制限を求めたり、優しさや心情で治めたりしてあいまいにする雰囲気はいかがなものか、まったく。

 

■みんなお互いさま
少々の不安を抱えながらも、仕事や家庭でできる限り感染予防をしながら、近所の店で買い物や食事を楽しみ、経済を回していく。職場でも「大変だよね」「早く収束してほしいよね」が言いあえる。こんなシンプルであたりまえの生活を続けていくことが、案外、「みんなお互いさま」の分断されない社会を作っていくパワーにつながるのではないかなと、期待も含めて思っている。

(地方都市在住 一人暮らし50代のゲイ)